【マインド】趙州洗鉢のお話。
和尚さんから「洗鉢」というお話を聞きました。
昔、趙州という120歳まで生きた僧がおり、
若い僧が弟子入りしたく門戸を叩いたそう。
その若い僧はどこかで経験を積んできたのでしょう、
さて、趙州を試そうと、
『如何是仏(仏とはなんですか?』
と、聞きました。
すると、趙州は、
『飯は食ったか?』
と返しました。
はて、若い僧はきょとんとして、
『はい、食べてきました』
と答えました。
趙州、
『飯を食ったら、茶碗は洗ったか?』
と返しました。
若い僧、
『はい、洗いました』
趙州、
『それが仏だ』
そう答えたそうです。
意味わかりますか?
私は意味が分かりませんでしたので、
和尚さんに聞きました。
私、
「飯を食って、皿を洗って、それが仏とは意味が分かりません。仏とはいったい何なんでしょう?」
和尚、
『仏というのは、ひと、一人ひとりのなかにある仏の種を生かすということなんですよ。』
と答えられました。
人には与えられた能力(ポテンシャル)があり、その能力を生かし、あるがままの自分で生きることが仏であると言われました。
ここでの飯を食って、皿を洗う、というのは、あたりまえのことを意味しており、このあたりまえのことをあたりまえに行うことが仏であると言いました。
人が与えられた能力を、その能力を生かしきれるよう修練し、能力を最大限に発揮することが流れに沿った人間の自然の姿であるとするならば、自分の能力の開発に日々取り組まなければ、能力を最大限に生かし切ることができません。
あたりまえに修練していく。
あたりまえに自己開発していく。
あたりまえっていうのは、
なんて難しいんでしょうか・・・。
いいお話が聞けて、良かったです。
あたりまえに日々精進。